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ガンバ大阪に現在所属している遠藤保仁選手は、日本歴代1位の国際Aマッチ出場数152という記録も残している稀代のミッドフィールダーです。なによりその魅力は、視野の広さと正確無比なパスセンス、そしてクレバーな守備もできるという点だと思います。経歴としては、名門の鹿児島実業高校卒業後に横浜フリューゲルスというクラブに所属することになったのですが、クラブの消滅に伴い京都パープルサンガに移籍。後にマンチェスターユナイテッドの一員としても活躍することになるパクチソンとも一緒にプレーしていました。その後2002年に現在も所属しているガンバ大阪に移籍するとチームの核となる選手へと成長し、今でもチームに不可欠な選手として活躍しています。そんな遠藤選手ですが日本代表においては、主力として目覚ましい活躍を見せてきたというわけではありませんでした。というのも遠藤選手の世代は黄金世代とも呼ばれており、天才と呼ばれフェイエノールトでも活躍し現在はJ2のコンサドーレ札幌に所属する小野伸二選手や、アーセナルに所属経験もあり小野選手と同じくコンサドーレに所属する稲本潤一選手など同じポジションに強力なライバルが存在していたからです。そして2006年のドイツワールドカップでは、フィールドプレーヤーとして唯一出番がなかった選手が遠藤選手でした。遠藤選手自身も、この時の経験を忘れることはなかったと語っています。そんな彼のキャリアが大きく動く転機が訪れます。それがイビチャ・オシム監督の日本代表監督就任です。当時のジェフユナイテッド市原の監督であったオシムは、巻誠一郎らを擁しヤマザキナビスコカップを制覇してチームに初のタイトルをもたらしました。その功績から日本代表監督へと就任したオシムは、遠藤選手をボランチではなくサイドハーフで主に起用しました。遠藤選手はこの時のオシムの指導のおかげで、選手として大きく成長できたと語っています。オシムはとにかく走ることを選手に求める監督であり、遠藤選手もこのあたりから試合中の走る距離が長くなっていったように感じています。その後オシムが病気のために代表監督を退くこととなり、新たに就任したのが岡田武史氏でした。岡田氏の就任後は長谷部誠と不動のボランチを形成するに至り、2010年の南アフリカワールドカップに至るまでその図式はほぼ不動でした。そして2010年のワールドカップ本大会では当時10番であった中村俊輔を外し、またブレイク前の本田圭佑をワントップとして起用するなどの戦略を採った岡田氏ですが、遠藤選手への信頼は絶大でした。迎えたグループリーグ第3戦のデンマーク戦では見事にフリーキックを決めてチームのベスト16入りに貢献しました。この時のフリーキックは決めた局面の重要さもあり、私の中では忘れられないものとなっています。

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